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August 23, 2006

『近代文学の終り』by柄谷行人

近代文学の終り―柄谷行人の現在

『近代文学の終り』というタイトルですが
文学のことよりも、国家観、世界観の話が
多いです。
著者はすでに、文学には興味がないようす。
でもその国家論、世界論がおもしろかった。
がんばってマルクス読もうかな。

文学についてですが、私が読んだ感じでは
哲学を初めとしたハイカルチャーと大衆を結びつけるものが
小説だったのかなという気がします。
しかし、すでに小説はその役割を果たさなくなった。
だから近代文学が終わったってことなのじゃないかしら?
柄谷曰く
「近代文学が終わったということは
小説あるいは小説家が重要だった時代が終わったということです」
だそうだ。

ここのところ、ずっと考えていたのですが
私はやはり虚構が苦手みたいです。
柄谷がいう
「小説が芸術と見なされたのは、それが虚構を通して
真実を把握すると見なされるときである」
というような作品なら読んでみたいのですが、
娯楽としての小説にはあまり興味がないということが
わかりました。
教養としての古典は読みたいと思うのですが、
ただストーリーを楽しむためだけに小説を読むことは
好きではないみたい。
そんなことがわかった一冊でした。

読書メモ
15
近代小説の特質は何といってもリアリズムにある。
小説が芸術と見なされたのは、それが虚構を通して
「真実」を把握すると見なされるときである。

17
形式面でいえば、リアリズムをもたらすのは
語り手がいるのに、まるでそれがいないかのように
見せる話法の工夫である。
それが完成された形態が「三人称客観描写」である。

むしろ、そのようなリアリズムを拒絶した作家がいた。

ゴーゴリ、ドストエフスキー

カーニバル的な世界感覚(?)

31
中上健次の死は総体として近代文学の死を
象徴するものであった。

もちろん、文学は続くだろうが、
それは私が関心を持つような文学ではない。

36
近代において文学が特殊な意味を与えられていて、
だからこそ、特殊な重要性、特殊な価値があったということ、
そして、それが、もう無くなってしまったということなのです。

37
近代文学が終わったということは
小説あるいは小説家が重要だった時代が終わったということです。

38
サルトル
文学とは一言でいえば、永久革命の中にある
社会の主体性(主観性)である。

39
エクリチュール→ロマンでもない哲学でもないような著作を意味した
彼らはサルトルのように小説を書けないから
サルトルが「文学」として述べたことをエクリチュールという概念に
置き換えた。

42
キム・ジョンチョルという高名な文学批評家は文学をやめて、
エコロジーの運動を始めた。

自分が文学をやったのは、文学は政治から個人の問題まで
ありとあらゆるものを引き受ける、
そして、現実に解決できないような矛盾さえも引き受けると
思ったからだが、
いつの間にか文学は狭い範囲に限定されてしまった。
そういうものなら自分にとって必要はない。
だからやめたのだ。

45
それまでたんなる感性的な娯楽のための読み物であった
「小説」に、哲学や宗教とは異なるが、
より認識的であり真に道徳的であるような可能性が
見出されるということ。
小説が、知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層を
「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです。
(しかし、今はそうではない)

53
近代小説の特質は何といっても、リアリズムにある。
物語(虚構)であるのに、それがリアルであるかのように
見えさせるにはどうすればよいか、
それが近代小説の取り組んだ問題。

54
リアリズムをもたらすためには
対象面→ありふれた風景と人間
形式面→三人称客観描写

54~55
日本の作家が「私小説」にこだわったのは
三人称客観描写という「象徴形式」になじめなかった。

私小説家には三人称客観小説は通俗小説に見える。

私小説は「リアリズム」を徹底しようとした。

芥川「藪の中」は三人称客観が虚構でしかないことを示した。

あとにサルトルが三人称客観の視点を疑い、アンチ・ロマンとなった。

以来、三人称客観は放棄された

しかし三人称客観が与えるリアリズムの価値をとってしまうと
近代小説がもった画期的な意義もなくなってしまう。

58
インド人の作家 アルンダティ・ロイ
「このような危機的時代にのんきに小説など
書くことはできない」

60
純文学と称して、日本でしか読むにたえないような
通俗的作品を書いている作家が、
偉そうなことをいうべきではない。

220
普遍宗教
それは共同体を否定し、且つ市場社会を否定するところに
出てきます。

224
今のイラクだってネーションはできていないですよ。
それは民族(エスニック)と混同してはいけないし、
宗教(イスラム)と混同してはいけない。

225
帝国は、通常、他民族を統合するために、
普遍宗教をもつわけですが…

229
近代文学というのは何となく、
内面的で孤立した個人がやるもので、
他人と一緒に活動することを堕落と見なすような
そんなイメージがあります。

しかし、僕は、1970年代の後半には、
近代文学のそのような「内面性」を否定しようとした。
それが『日本近代文学の起源』です。

230
憲法でも、
まず初めに到底お互いに理解しえない他者がいることが
前提となって憲法があるということが、
今はひっくり返っちゃっている。

なあなあでやれるんだったら憲法なんか
そもそも必要ない。

237
アルカイダはマルチチュード???
ネグリとハートの『帝国』と『マルチチュード』

241
虐げられているあいだは、「マルチチュード」とか呼ばれて、
先進国の知識人に妙に期待されたり、
誉められたりするんですよ。
ところがテロリストになるとだめだという。

(そうか!
テロリストは資本主義の原則にあてはまらない。
(金で左右されない)
だから怖いんだ。)

244~245
重要

247
イスラム原理主義に勝とうとするなら
イスラム原理主義以上にイスラム的に振舞えばよい、
具体的にはいわば圧倒的な喜捨…
↓しかし
251
同じような一神教であるキリスト教圏とイスラム教圏の間で
贈与合戦をやってても、結局ポトラッチみたいなことになってしまう。

252
社会主義運動の不在が彼らを原理主義に向かわせていると思います。
マルクス
「宗教を実現することなしに、宗教を廃棄することはできない。
しかし、宗教を実現するためには、宗教を廃棄しなければならない。」

253
アラビア諸国で農業があったのはエジプトとイランだけ。
イスラム教徒は基本的の商業をベースにしている。

(おー、ハンチントン『文明の衝突』が出てきた!)

文明の衝突ではなく、すぐれて現代的に捏造されたものとしての
キリスト教原理主義とイスラム原理主義の衝突

254
大澤真幸が書いた『演劇人』の記事

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Comments

>ただストーリーを楽しむためだけに小説を読むことは
>好きではないみたい。

 同感。
 ただストーリーだけを追いかける人って疑問だよねー。
 僕もそういう人々は理解できない。いやむしろ大ッキライ。そういうのって、小説や物語の命を損なっていると思うもん。

 なんていうか、哲学ってまで大きなことは言えないけれど、ストーリーを通して「こういうことってあるよね」とか「これはいけないね」という教訓だったり、あるシチュエーションにおける人間性みたいなものがメタファーとして浮き出てくるのが小説のすごいところだし、それを読み取るのが読書なのにね。
 そんなの全部無視で、ただ字だけを機械的に読んでストーリーとプロットだけを追いかけて「これは面白い」「いや面白くない」って言ってるのは疑問だな。すっごく薄っぺらい。
 そういうエンタメ的な読み方もタマには良いけどね。それしかできないのだったら悲しいよね。逆立ちしても名作は理解できないだろう。
(とかいう僕も名作をきちんと理解できとりませんがね(笑)。すくなくとも損なってはいない)

 思うに、エンタメ的な読み方をしたい又はエンタメ的読み方しか知らない人々が増えてるのかもね。でもって作り手側も売るために安易にそれに合わせてる。結果また増える。……悪循環だね。誰が仕組んだんだか……。


 ところで。
 こんだけバカスカ引用しちゃって大丈夫?
 これってちょっとヒドすぎない?(笑) おこられちゃうよ?

Posted by: ろぷ | August 23, 2006 at 18:41

あ~、読むの疲れた・・・
LINさん、こんにちは。
うむむ、LINさんのブログに出会わなければ柄谷氏の文章なんて一生読むことは無かったかも。と言いつつ、積読本の中に『反文学論』があって手を出さずにいるだけなのですが。
うーん、でも彼の考え方だと、人間の歴史は今後、ただ知識の総体が増していくだけで新たな思想、価値観を生み出すことができないって解せてしまうなあ。もう今の時点がいっぱいいっぱいって、なんかさみしいような。
いや、そうではないのか?だとすると現代では、文学が果たしていた役割にとって代わるものが出てきたのかっていうと、何かあるのかな?って思ってしまうのですが。あ、頭が痛い・・・。

Posted by: kyokyom | August 23, 2006 at 21:01

>ろぷさん
>作り手側も売るために安易にそれに合わせてる
問題はそこだね。
最近の作家の作品が、心に響かないのは
ストーリーがおもしろければいいという考えがあるからだと思う。
実際、そういう方が売れるし。
で、ネットでの感想文を見ていると、やはりストーリー云々の
感想が多いよね。
でも、きっとその流れは変わらないよね。
だから、もう私は文学云々について、書かないと思う。
この『近代文学の終り』で、柄谷さんが
「文学?どうぞ好きにしてください」と書いているんだけど
私もそんな気分だな。
思ったのですが、80年代頃を境に文学にしても映画にしても
強いメッセージ性を発することがださいという風潮になった気がします。
(たとえば、平和へのメッセージとか)
その点、演劇は、まだまっすぐにメッセージを伝えられるような気がします。
(最近、演劇が気になるの)
音楽も大丈夫かな。
まあ、また、こういう事、書くと、ろぷさんに、
「いや、作品の裏に隠されたメッセージが」とかいわれそうだけど(笑)。
>バカスカ引用しちゃって大丈夫?
“続きを読む”をクリックしなければ表示されないからいいかなーと(^^;
柄谷さん自身が文句いいにきてくれたら、それはそれでおもしろいし(笑)
でも、自分しか見られない場所に移そうかな。

Posted by: LIN | August 24, 2006 at 09:02

>kyokyomさん
>あ~、読むの疲れた
わー、全部、読んでくださったんですか!
ありがとー♪
この本はそんなにむずかしくなかったです。
(『近代文学の起源』は挫折中だけど…ぷぷ)
>新たな思想、価値観を生み出すことができない
いやいや、全然、そうじゃないです。
むしろ、柄谷さんは新しい国家論に燃えているようです。
(最新の著書『世界共和国へ』もおもしろいらしいです)
要はもう文学には何も期待できないね、という話です。
>文学が果たしていた役割にとって代わるものが出てきたのか
そうそう、そういうことです。
この本にも書いてありましたが、インド人の作家や韓国の作家が
「こんな時代に本を書いている場合じゃない」と具体的な社会運動を
しているそうです。
エコロジー運動とか。
私、日本の作家はのほほんとしすぎていると思うんです。
テロがあろうが、戦争があろうが、自分の書斎で、
自分の頭の中でひらめいた物語を「ふふふん」と鼻歌まじりで書いている。
(あ!思わず「ふふふん」と書いてしまいましたが、作家Sのことを意識して
書いたわけじゃないです 笑)
もっと、作家は、活動すべきではないでしょうか?
だから、社会運動ではないですが、仕事柄、日頃、様々な人とふれあっている
劇団ひとりさんの作品に感動したんだと思います。
でも、いわゆる専業作家は、じとーっと、書斎にこもっているイメージがあります。
以前、kyokyomさんに、私が文学についていろいろ語っていることについて
「なぜ、そんな疲れることをするのか?」と問われましたが、
私も、もうこんな疲れることはやめようと思います(笑)
私ごときがムキになっても、何も変わりはしないので。

Posted by: LIN | August 24, 2006 at 09:14

>まあ、また、こういう事、書くと、ろぷさんに、
>「いや、作品の裏に隠されたメッセージが」とかいわれそうだけど(笑)。

 いやいや。無いモノには逆立ちしても無いので、無いものを感じろとまでは言いません。
 ストーリーだけを表面的に話題にしてる時点で文学とは言えないものなのに、それを理由に文学に幻滅しているこの著者とLINさんの動機がピンと来ませんので反論もできません。最近増えたエンタメに幻滅したってんなら動機としても文脈としてもわかるのだけれども(ヤヤコシイ言い廻しスマソ)。
 あ、
 LINさんの決意を尊重してもうこの話題は触れないでおきますね。忘れてください。


 僕は

>音楽も大丈夫かな。

 という言葉に興味津々ッス。
 現代クラシック(ヘンな日本語!)や古典などには、僕も共感するけれどもね。
 でもなんちゅうか若い子向けの小銭目当てのいわゆる「ヒットチャート」に属する商売がね、僕には音楽の聴けない大人を量産しているように見えるのよ。たしかにヒットチャートにもいいものはあるよ、でもそのほとんどはジャンクでしょ。小説で言えばラノベ。
 だから僕は文学よりも先に音楽に幻滅しちゃいました。将来有望な若者にこんなジャンク音楽を週代わりで次々と垂れ流していたら。将来、この国でホントに音楽の聴ける大人はゼロになるだろうなって思ったの。
 よってLINさんが音楽をどう感じるか、これからの記事にとっても興味がありまする。
 良い意味で裏切られることにちょっと期待。

(調子に乗って書きすぎたっ。これから急いで仕事に行ってきます。時間、ヤバヤバ(笑))

Posted by: ろぷ | August 24, 2006 at 10:17

>ろぷさん
>時間、ヤバヤバ
わー、大丈夫?仕事、まにあったかしら?
>ストーリーだけを表面的に話題にしてる時点で文学とは言えない
だから、そういうストーリーだけが取りざたされるような小説が
文学と呼ばれ、作家がエラソーにしてるじゃないですか(笑)
エンタメじゃなくてね。
そもそもエンタメと文学の線引きだってはっきりしてないんじゃないの?
エンタメだから文学とは呼ばないとはいいきれないだろうし。
>文学に幻滅している
のはストーリーの問題だけじゃないですよん。
もちろん、柄谷さんもです。
>音楽も大丈夫かな。
という発言の時は、すみません、古いんですが
ジョン・レノンの“Happy Christmas (War is Over)”
を思い浮かべてました(・∀・;)
最近のジャパニーズ・ポップスは私も苦手ですね。
というか、20代の頃から、ジャズメインなので…
そうそう、最近、感動したのは、
「王様のブランチ」という番組で、
「夜遊び番長」という、レポーターとゲストが夜遊びするコーナーがあるのね。
それに、シンディ・ローパーが出演したの。
で、ライブハウスで、シンディが歌って
レポーターの森山愛子に「あんたも歌いなさいよ」みたいになって
彼女は演歌歌手なんだけど、赤とんぼを歌ったの。
それには、シンディもじーんとしてました。
私は、まだまだ音楽で泣くことってたくさんありますよ。
文学ほどは失望してないです。

Posted by: LIN | August 24, 2006 at 18:28

LINさん、こんにちは。

うむむ、LINさんは、ずんずん進んでいくのに僕は同じところをぐーるぐる。
いつものことで申し訳ないですが、なんの根拠もなしに感覚だけのコメントしますことお許し下さい。
“文学は終わった”と信じていらっしゃるとすると多分、古典を読む意味も無いです。
古典とは、いつだってそれはそのまま“現代文学”ということなのだと思います。
そのことに気がつかないとすると、古典を読んでもただトリビアの種を増やしていくだけであり、それは教養とは似ても似つかないものではないかと。
>「こんな時代に本を書いている場合じゃない」
なるほど。書くことより、行動の方が大切なのでしょうか。
しかし古典時代の作家達は行動と書くことを両方行っていたように思います。たとえ昔は、表現する手段が本というメディアしかなかったとしてでもです。
もし古典という名の現代文学が生きているなら、文学は終わっていないです。
今は民衆の時代です。民衆の動きが文学を生み出す土壌になりうるのではないかと思います。そして民衆に知恵がないと思うならきっと文学は終わっているのでしょう。

あの・・・こんなもん、投稿してよいものやら迷うのですが、前回のコメント後も同じこと考えてちょっと後悔し、でもLINさんが丁寧なコメントを返して下さったことに勇気付けられて投稿させて頂きます。ドキドキ。

Posted by: kyokyom | August 25, 2006 at 00:37

>kyokyomさん
>こんなもん、投稿してよいものやら迷う
そんなこといわず、どんどん書いちゃってください。
私は質問を投げかけられて考えるのが大好きなんです。
だから、今回のkyokyomさんのコメントも
いろいろ考えさせられて、楽しかったです。
>古典とは、いつだってそれはそのまま“現代文学”
この意味がちょっとわからないです。
古典と現代文学はまったく別だと思いますよ。
吉本隆明はこういってます。
「一般に古典的な著作と呼ばれているものは、
こちらがわの動きや深さによって、
本来、同じ文字がならべられているだけなのに、
なお動きや深さの変化としてあらわれるものをさしている」
私が思うには、作品の度量みたいなものではないでしょうか?
また、だからこそ、現在まで、残ってきたんだと思います。
そして古典のいいところは、現在まで残っているということで
すでに厳選されているということですね。
現代作品は玉石混交ですから。
>トリビアの種を増やしていくだけ
ただ、kyokyomさんがこうおっしゃりたい気持ちもわからなくはないです。
私の中に教養主義的傾向みたいなものが、あることはあるんです。
でも、考え方はどうあれ、古今東西の名作を100冊、読んだら
それがただのトリビアになるとは私は思わないですね。
古典というのは、その程度のものじゃないと思います。
>作家達は行動と書くことを両方行っていた
そうですね。
上に例に出した作家たちが、書くことをやめてしまったのは
主張のある作品を、誰も読まなくなったからではないでしょうか?
日本だけのことを考えても、小説というのは、おもしろさが優先されて
主義主張の強い作品は、あまり好まれない傾向がないですか?
そうすると、エコロジー活動した方が早いやという話では?
>今は民衆の時代
すごいなあ、kyokyomさん、何かの活動家みたいですよ(笑)
うーん、民衆の時代なんでしょうか?
民衆の定義がまたむずかしいですけれど…
>民衆に知恵がない
実際、今の日本を見渡して、民衆が賢いって思います?(笑)
もちろん、私は上から物を見て、民衆をバカにしてるわけじゃないです。
私も民衆の一人ですし。
でも、民衆というのは、ナポレオンしかり、ヒトラーしかり、
簡単に派手なパフォーマンスの方に流れていってしまうんだと思うな。
日本における選挙も、大して深い考えがあって
投票しているわけでもなさそうでしょ?
と、こうやって書いてきて、私はやっぱりまだまだ表現力が足りないなと
思いました。
人間って何なのか、国家って何なのかetc…
いろいろ、勉強したいなと思ってます。

Posted by: LIN | August 25, 2006 at 09:24

 疲れる議論はやめにして提案を。

>そういうストーリーだけが取りざたされるような小説が
>文学と呼ばれ

 誰にそう呼ばれているのか、だけは考えた方がいいのではないでしょうか。この著者さんは考えてるのかもしれない。けれど表現を回避しているのか表現できないのか、はたまた僕が読めないのかわからないけれど、伝わらなかった。
 少なくとも僕は「文学」と呼ばない。僕のまわりの、僕よりも深く読書をしているひとも呼んでいない。じゃ、そう呼んでいるのはだれだろう?

 こういうしくみって音楽業界にもあるし、たぶん演劇にもありますよ(演劇はあんまり断言できないけれどさ)。問題は文学だけの話ではないと思う。
 こういう部分を考えないと、ドコに行っても最後にはなんでも幻滅しちゃってポイッってなっちゃいそうだけれど……

 気が向いたらそのへんを考えてみてくださいな。
 僕にはとても大事なことだと思いますので。


 ちょっとだけ横レス。
 僕はkyokyomさんのいう『古典とは、いつだってそれはそのまま“現代文学”』という意味がおぼろげながらわかるッス。それは文学とSFの境界線が誰かに作られているのと同じ理由で誰かにカテゴリー分けされているだけだと思うな。
 基本的には同じモノだよ。
 「現代文学」を「今の人々に受け入れられている文学」と定義(もちろん「現代に書かれた」という定義も成り立つけれど、「じゃ現代って何年前からよ?」と算数や歴史の話になるので除外)すれば、そりゃもう古典も立派な現代文学でしょ。
(誤解していたらごめんなさい>kyokyomさん)

Posted by: ろぷ | August 25, 2006 at 11:02

>ろぷさん
>誰にそう呼ばれているのか
出版社と文壇と作家本人(笑)
だって、たとえば川上弘美ってエンタメじゃないでしょ?
文学って認識されているでしょ?
音楽や演劇は、文学ほど狭くないと思うんですよ。
バラエティに富んでいるし、ジャンルもいろいろある。
クラシックがえらいわけじゃないし、歌舞伎がえらいわけでもなくて
そういう権威主義みたいのが、今はないじゃない?
(一部には、クラシックがえらいと思っている人もいるかもしれないけど)
だけど、文学は、SFもエンタメもミステリーも入ってきちゃダメで
「ぶ・ん・が・く」というピカピカの看板があって
その文学という狭い世界の中で、
文学を書いているといわれている作家たちがいばっている。
そんなイメージ、私の中では。
ミュージシャン(ジャパニーズポップスとかは含めないでね)や演劇人は
何か新しいことをやってやろうという気概があると思うけれど
作家は、「文学」というしばりにとらわれて、「文学」をやろうと
している。
だからつまらないのでは?
古典は古典ですよ。
Yahoo辞書では
「学問・芸術のある分野において、歴史的価値をもつとともに、
後世の人の教養に資すると考えられるもの」
となってます。
日本の最近の作品に、そういうものがあるでしょうか?
>「現代文学」を「今の人々に受け入れられている文学」と定義
この定義は、どこから持ってきたかわかりませんが
私には理解できないです。
現代の文学で、受け入れられているかどうかは
関係ないと思いますが…?
Wikipediaによれば現代文学とは
「文学史に於ける時代区分の一種である。
近代文学の後に位置する。」
だそうです。
>古典も立派な現代文学でしょ。
私の中では、古典はある程度の評価を受けた作品と考えています。
でも、kyokyomさんやろぷさんに同じ考えを持ってほしいというわけじゃないです。
私はそういう認識でいますという話です。

Posted by: LIN | August 25, 2006 at 16:15

 音楽に「ジャパニーズポップスとかは含めない」というしばりや権威主義を感じる(笑)。
 いや、これは冗談です。マジに取らないでね。

 書き逃げに思われると困るので返信だけ。
 いやぁ、大体ですがよくわかりました。
 了解ってことで。
 最後の二行にいちばん共感しました。

Posted by: ろぷ | August 25, 2006 at 19:09

>ろぷさん
僕が単なる感覚で書いた言葉を解り易い言葉で説明して下さりありがとうございます。僕はいつも単なる勘でしか物事を述べられないので、困ってしまいます。さすがにそれでは情けないので、ろぷさんが説明して下さったことを元にちょっと自分なりに考えてみました。

>LINさん
LINさんの現代文学の定義分かりました。そういう意味なら古典と現代文学を区別すること、理解できます。で、LINさんが認識されている現代文学の定義について異論は無いのですが、僕自身がどういう意味で古典も現代文学であると述べたかを説明させて下さいませ。
ウィキの定義は間違っています。いや、一面的(狭義)には正しいのですが、本質的な意味でちょっと違うのです。それは、現代文学の“現代”に歴史という要素が欠けているのではないかと思います。
たとえば16世紀当時の人にとっては、当たり前のことですが、今からみて500年前の昔が現代であるのです。また今から100年後の人にとっては22世紀が現代であるのです。“現代”は時間と共に移動するのです。
ウィキの定義はあくまで今時点の静的な意味での現代であって、移り変わる時間という動的な概念を含んでいないのです。
LINさんは、21世紀に生きる現代人ですよね?
そして古典(たとえばカラマーソフ)を読んで心を揺り動かされた。現代の価値観の元に生きていらっしゃるLINさんが古典に心動かされるということは、それは古典が現代に生きている証拠ではないでしょうか。現代人の心を感動させる力を持っている。昔も今も人間は人間であった証拠です。歴史がきちんと続いている。古典が現代人の心を動かす力がないのだとしたら、それはやはり終わっている。
そして、もし(今時点の)現代で文学が終わったというなら、それはそもそも価値観がまったく異なっているわけで、古典の価値観、思想は受け入れられないし、人を感動させる力を持たないと思うのです。現代的価値観、思想の元で生きる我々が古典を読むことができて感動することができている。小説(古典)という形式そのものが終わっているとしたら、現代の我々が古典を受け入れることができるのはなぜでしょうか?現代に生きている人々が古典を通してその形式も思考も受け入れているのに、文学が終わったと言えるのはちょっと矛盾しているのではないかと思います。
LINさんが柄谷氏の文章を僕に分かりやすい言葉で説明して下さりました。“度量”という言葉で。ある時代の人は度量が大きいけど、これから先は度量を持った人間が現れないのでしょうか。
ここらへんは、うまく文章を繋げられなくて分かりにくいと思います。すみません。

教養については、それこそ先日放映された爆笑問題VS東大で論じられて色々な定義がなされたわけですが、僕自身は教養とは、頭と心をつなぐ作業だと思っています。そういう意味では、考えるだけでは教養にはなり得ないと思うのです。僕の勝手な解釈ですが。

僕は、これからは大衆文化の時代が来ているのだと思っています。民衆も一人の人間と同じように考えてみたらいかがでしょうか。何かを受け入れるのに時間がかかる。LINさんご自身も、これは!と一時的に思っても後からやはり違うかなあと思うことはあるかと思います。ただ、ここからはちょっと変わるのですが、一人の人間なら過ちを犯してもその被害は自分や狭い範囲で済みます。しかし民衆という大きなエネルギーを持つものは、もし過ちを犯したときには、それだけ悲惨な結果を生んでしまうのです。しかしそれだけで民衆が正しい選択を絶対に出来ないということの証明にはならないのです。LINさんが、ナポレオンやヒトラーの例を引かれたように、逆にガンジーやキング牧師の主張に耳を傾け行動を共にしたのも民衆です。

昔のように文学が一部の特権的知識階級のものである時代は終わって、ちょっと混迷期に入っている時期、手探りの状態である時代なのだと思います。日本で言えば、これだけ多くの人々が本を手にするようになったのは、歴史的に見ればまだ日が浅いと言えます。だから今は簡便な形で、映画やマンガも含めて物語というものを摂取し、理解しようとしている時期なのかもしれません。大衆全てがとは言いませんが、このような状況をLINさんのように憂える人が増えて自分達の求めているのは、こんなものではない、と気付き始めたときに何か新しいものが生まれてくるのかもしれないです。

うーむ、僕はちょっと楽天的にすぎますね。やはりきちんと考えていないからこうなるのかな。
長文済みません。実は金曜の夜に飲み会があって、酔った勢いで自分の思っていたことを書いてみました。いつも丁寧に答えて下さりありがとうございます。僕はちょっとLINさんに甘えすぎたでしょうか。

Posted by: kyokyom | August 26, 2006 at 00:55


コメント読まずに書いちゃいます。私見ですが、1990年以降の柄谷は読む必要がありません。『マルクスその可能性と中心』の頃はまだ良かったのですが、NAMそしてQという地域通貨の失敗を経た後では、貨幣や資本主義、交換や価値に対する氏の考え方の根本には違和感がありますし、致命的な欠陥があると言わざるを得ないからです。

近年の著作のどれもが、氏の根本を正当化するための論法であり、誘導するためにあらゆるものを否定または終わらせようとしている印象を受けます。それで何かを生み出しているかといえば、旧態依然とした左翼系コミューンです。終焉も内ゲバそのものです。NAMやQについてはネット検索してみてください。新しい国家や経済の仕組みを作ろうとしている柄谷氏本人が既存の利権システムを使って既存の貨幣価値(=お金)を求めている姿が如実に顕われています。

文芸批評から思想に行ってマルクスに辿り着き、経済にまで頭を突っ込みはじめて社会変革を目指すというのは流れとして珍しいことではありません。恐らく過去の日本には、そういう人がたくさんいたことでしょう。でも、そう思い込んでいる人たちに特有の気持ち悪さもあります。「自分が社会を善くするのだ」という陶酔感と、自分たちが世界を変えるのだから相応の見返りはないといけないという本末転倒の実態です。

柄谷氏が目指している国家の姿は(氏の「原理」が変更可能であるために私にはもうひとつ理解できないのですが)おそらくとんでもないものです。それに同調してしまう人が、左翼くずれだけではなく高学歴の若い人にまでいるということも、おそろしく感じます。

柄谷氏の(ある意味非常に分りやすい)論法では文学が安っぽくなってしまうことが、とても残念です。とはいうものの『日本近代文学の起源』や『探究』で見せた手腕は、いつまでも古びない「新しさ」であることに変わりはありません。

「旧態依然」や「おそろしさ」や「安っぽく見える」は、氏に対する私の印象です。もちろん、氏に共感する人もいていいと思います。でも、というか、だからこそ、テロリズムや価値の交換(=経済)などについては、柄谷氏の著作だけではなく、その専門の人の著作をいくつも読んでからでないと、自分の中で形成されないし、何も言えないのではないかとも思うわけです。

Posted by: kota | August 26, 2006 at 05:45

>ろぷさん
>ジャパニーズポップスとかは含めないでね
これは、ろぷさんが「ヒットチャートはジャンク」とおっしゃっていたので
「ジャパニーズポップスもそうですかあ?」とかいわれないために
わざわざ書きました(笑)
いや、私だってジャパニーズポップスを全部、聞いているわけじゃないので
表層的印象に過ぎないです。
>最後の二行にいちばん共感しました。
ええっ、そ、そんな~(笑)
もっと他のところで共感してくれ~。

Posted by: LIN | August 26, 2006 at 08:43

>kyokyomさん
>酔った勢いで
全然、OKですよー(笑)
酔うと書きたくなるってあるよね。
>ウィキの定義は間違っています
いやあ、いきなり否定しちゃって、すごいなあ(笑)
確かにwikiは不特定多数の人に書かれていますから、
信用できるのかという話もありますが、
逆に、常に多数の人に監視され、書き直されているから
それによって信用度が高まっていくらしいですよ。
それこそ、kyokyomさんのいう民衆の力なのでは?
kyokyomさんのね、時代は流れているから
現代もいつかは昔になるという説はごもっとなんですけど
“古典”というのは古いというだけでなく、
多くの人に支持されてきたわけですよ。
しかし、日本の最近の小説(ここ5、6年くらい)を見ているとね、
果たして、この中に、あと50年100年残る作品はあるのだろうか?
と思うわけです。
そうです、50年、100年、残る作品が古典だと私は考えます。
>考えるだけでは教養にはなり得ない
私もあの番組は見たし、この意見には賛成です。
>大衆文化の時代
いわゆるサブカル?
>民衆も一人の人間
そもそも民衆などいるのでしょうか?
昔はある程度、民衆って画一化されていたような気がしますが
(それも幻想に過ぎないのかもしれないけれど、
我々は小説で知るしかないわけで、そのイメージでは
確かに民衆っています)
今は、民衆なんてひとくくりにできないように思うんです。
たとえば、ブログは大勢の人が集まる場所なわけですが
ブログを見ている限り、「ああ、民衆がいる」とは私は思わないです。
>何か新しいものが生まれてくるのかもしれない
うーん…
私は、最近の日本の小説に落胆してますからねえ…
あそこから何か新しいものが生まれてくるとは思えないな。
どんどんレベルは下がる一方という気がします。

Posted by: LIN | August 26, 2006 at 09:10

>kotaさん
>1990年以降の柄谷は読む必要がありません。
ええっ!そうなんですか!
>旧態依然とした左翼系コミューン
そういわれるとそんな気もします。
でも、私はまだ読んでいませんが、
彼の最新刊『世界共和国へ』は話題のようですよね。
私も①商品交換②収奪-再分配③互酬制に対する四つ目の交換原理というのが
果たして、本当に存在し得るのかと疑問なんですが
「労働者としてでなく消費者として闘う」なんてあたりは賛同できました。
>相応の見返りはないといけない
これを読んだ限りでは、そんな感じは受けませんでしたが、
そうなのですか!
>専門の人の著作をいくつも読んでからでないと…
特にマルクスとカントは読まないとダメなんでしょうねえ。
マルクスにはチャレンジしてみようと思うのですが
多分、わからないんだろうなあ(;´Д`)
柄谷さんのことはさておき、
環境問題などを考えても、資本主義というのは限界なのかなあと
思いました。

Posted by: LIN | August 26, 2006 at 10:07

>>相応の見返りはないといけない
>これを読んだ限りでは、そんな感じは受けませんでしたが、
>そうなのですか!

NAMの活動における利権はすべて柄谷氏が所有権を主張していますし、アイデアは柄谷氏に特許権があります。彼は、既存の社会経済構造における利得を欲しているわけです。何を言おうが、私には説得力がありません。

LINさんが賛同しているのであまり突っ込むのもアレなんですが「労働者としてでなく消費者として闘う」ことが既に、資本主義に内包されています。少し考えれば解ることです。それに柄谷氏が気づいていないわけがないのですが、彼はついついかっこいい(と柄谷氏が思っている)言葉を連ねてしまうのです。資本主義社会とは人間中心の労働社会ではなく貨幣中心の消費社会です。そもそも「消費者」という言葉がアメリカのマーケティング及び軍事政策から出てきた統計学の言葉です。柄谷氏の上手くてまた稚拙なところは、このように厳密でない言葉(耳当たりの良い言葉)だけを使った、読みやすくも結局何なのか分かりにくい文章で、断定形を多用するところですね。かつてはそのような強い言葉に効き目があったのですが、今はもう無効だと思います。さらに突っ込むと、現代のマーケティングでは消費者という言葉は使われなくなってきています。

あまり柄谷氏の批判をすると、ここが大盛り上がりになるかもしれないので、このへんでやめておきます。

Posted by: kota | August 26, 2006 at 20:51

こんばんは。
なんだかとても難しい話になっていますね。
いやいや、近寄りがたいです。
マルクスは、いきなり『資本論』に手を出して、挫折する人間が多いですね。
『資本論』をお読みになるのでしたら、計画を立てられることをお勧めします。
だいたい1年から1年2ヶ月程度で計画されるとよろしいかと。
最初は厳しいですが、「商品」を読み終えるとかなり楽になってくることが多いようです。
ちなみに、私は根性なしなので、『経済学批判』と『共産党宣言』からはじめました。
>環境問題
資本主義の限界というだけでなく、世間一般で環境問題についての誤解というか
無批判と懐疑的考慮の無さによる違和感がはびこっているような気がしてなりません。
まさか、リサイクルやクール・ビズが実効的に環境保全に寄与しているなどと
本気で考えている人はいないとは思いますが。

Posted by: 多摩のいずみ | August 26, 2006 at 21:08

>kotaさん
>「労働者としてでなく消費者として闘う」ことが既に、資本主義に内包されています。
あ!ホントだ(笑)
>LINさんが賛同している
いえいえ、賛同するほどよくわかってないです(汗)
>結局何なのか分かりにくい文章
『日本近代文学の起源』は読む価値があるのだろうと
1章である「風景の発見」をもう3回も読み直しているのですが
何だかよくわかりません。
そもそも「メタファー」と「シミリー」の違いもわからないような素人なので
『文学批評用語辞典』をひきひき読んでます。
>ここが大盛り上がりになるかもしれない
ああ、わかる(笑)
柄谷氏を好きな人って、熱烈に好きですものね。
追伸
自分の記憶にあまり自信がないので、kotaさんとこのコメント欄でなく
ここにこそっと書きますが、五十嵐威暢さんと、私、お会いしたことがあるかも…
当時、働いていたCIコンサルティング会社で、一緒にお仕事したような記憶が。
ファイル名はIGでした。
その会社のクライアントには、今、不正輸出で問題になっている
○ツトヨもいてファイル名はMITでした。
ただ、何せ、むか~しのことなので、記憶違いかもしれません。
講演、がんばってくださいね♪

Posted by: LIN | August 27, 2006 at 09:17

>多摩のいずみさん
>いやいや、近寄りがたいです。
またまた~(笑)
kotaさんと、多摩のいずみさんが、文学について議論なさったら
さぞ、もりあがるだろうなあと思います。
私がバカなために、話に広がりがなくて、申し訳なく思っております(;´Д`)
>『資本論』に手を出して、挫折する
最新の記事で紹介させていただいた劇作家の宮沢章夫さんも
何度も挫折しているみたいで、
とうとう『資本論も読む』という『資本論』を読むことに
挫折するさまをエッセイにした本も出されました。(笑)
>「商品」を読み終えるとかなり楽になってくる…
このあたりの文章から鑑みるに、多摩のいずみさんは『資本論』を
読まれたのですね!
すご~い。
>リサイクルやクール・ビズが実効的に環境保全に寄与しているなどと
本気で考えている人はいないとは思いますが。
すみません、思ってます(笑)
私もまだまだ、環境問題については表面的なことしか知りません。
是非、多摩のいずみさんの環境に対するお考えを伺いたいなあと
思いました。

Posted by: LIN | August 27, 2006 at 09:33

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